昭和四十九年十一月二十八日 朝の御理解


御神訓 「疑いを放れて広き真の大道を開きみよ見よ わが身は神徳の中に生かされてあ     り」

 御神徳の中に生かされてあり、神様の御恩恵、天地の御恩恵の中に、私共が生かされて生きておるということ、だからそれが分かったら、どういう事にならなければならんのか、生かされて生きておる一日一日が、本当に神様の心に、相反する様な、生き方をしたのでは、おかげが受けられないという事が、それこそ一目瞭然に分からせて頂く、み教えですね。
 御神徳の中に生かされてある。私共が自分で生きとるのじゃないです。生かされて生きているのです。ですから、例えばこうして朝参りするのでも、朝参りするのじゃありません。許されて朝参りをさせて頂いておるのです。
 もう一事が万事にそういう頂き方をしなければおられぬほどしにです。このみ教えはね、生かされる。自分で生きている様に思うておった。じゃない生かされて生きているのだ。本当に疑いを放れてというか、理屈を言わずに素直にね、自分が生かされて生きておることが、今日自分が生きておることをです、思い見たときにです生きとるのじゃない。成るほど生かされとるのだなあという事が分かります。
 私は金光様の信心の根本は、ここが分からなければ駄目ですね。只お願いして、おかげを頂くという事だけでは、金光様の信心の値打ちはないです。まず、生かされて生きておるという事実をです。私共が分からせて頂いたら、そんなら生かされて生きておるこの命がね、どういうあり方にあらなければならないのか、生かされておる今日一日が、どう過ごさしてもらわねばならんのか、という風になるのです。
 私は日々思うのですけれども、本当に今日もいうなら、充実した有り難い一日でありたい、そのためにはです、充実した御用に精進さしてもらわねばならないと思います。
 昨日、田主丸の山口りつ子さんというのが毎日参って来ます。いつも丁度、私が朝八時に、大体退らせて頂くのですけども、この示現活動が言われる様になってこの方は、どうしても、この頃三十分間程おそくなります。それだけお参りが続いとるわけです。あちらの御結界にもついてもらって、ここで私がお取次さして頂くのは、帳簿に上げさせてもらうのをあちらにさしてもらう様に致しましても、どうしても八時半までかかります。
 だから三十分間ずっと二人で書き続けてあるということは、やっぱりそれだけお参りが多いというか、という事なんですね。だから切れ間があるまで、ここに座らせて頂いとくわけです。それも本当に何か知らんけれども、実にその有り難い充実した感じを受けます。昨日山口さんが参って来てからです。もう親先生私がいつもこの時間に参って来る。親先生が八時迄であるということは知っておりますけれども、いうなら親先生が退られるギリギリの時間にいつも参って来る。けども親先生はそれを一つも嫌がる顔もなさらず、いつもにこにことお取次頂くことが、この頃日々大変有り難うなりました。
 叔父さんの家にお勤めしておる。化粧品店に勤めておるんです。もう何時までと店を閉めますね、もう閉めかかっとるときどんお客さんが来るともう、腹が立って仕様のなかった。今頃どん来てから、明日出直して来て下さいと言おうごとあった。
 ところが最近その事に気付かせて頂いて、時間ギリギリに私が、例えば、お参りさせて頂きましても親先生が、ニコニコとお取次下さり、御理解下さるということはです。これは、ここんところを見習わせてもらわにゃいけんと思うて、この頃ギリギリの時間に、例えばもうお店を閉めかかっとるときに来たお客様でも、実意丁寧に相対して頂くことに致しましたというお届けをいたしました。
 私は本当に今日一日を充実した生き方、何故かというと、私共が生かされて生きておるのですから、神様のおかげで今日お生かしのおかげを頂いとるのですから、それに対するお応えをさして頂く意味合いにおいてもです。如何に充実した一日であらなければ、神様に対して相済まんということがわかるじゃないですか。
 昨日の晩の御祈念が二番目の息子です。光昭が御用さしてもらっておりました。御祈念の後のお話をしとりましたが、こういう話を致しとりました。朝三番目の息子と娘が二人私が、三時半にここに出らして頂くために一緒に、いうならお供として出て来るのです。 そうすると二番目の息子は、私が四時に御祈念を御神前に出らして頂くときに時間にそこに迎えに来てくれる。襖を明け、こちらの襖を明けてくれるという、御用を致しておりますけど、中々毎日、今日も出て来とりません様ですが、出て来ません。
 それで他の修行生の方達が、まあ代わりにやります訳ですけれども、そのことを取り上げてこういうふうに言ってるのです。
 僕は朝の御用が出来たとき、朝の御祈念に出て来たときには、朝の御祈念を頂くと、はあこれで一日がもう済んだ様な気がすると言うのです。今日も勤めることが出来た。そうすると後が何かダラダラとなってしまうと言うのです。
 私はそれを聞かして頂きよって、自分自身の若いときのことをね、思い出しました。青年時代朝の御祈念にお参りをする。早くお参りをするとです、確かに参った時には確かに一時的にではあるけれどもダラダラとする。本当に、私は同じところを通りよるなあと思うんです。
 ところがです、目が覚めたときにはもう御祈念も済んどろうと思う頃に目が覚める。もう今から出たっちゃ仕様がないからと思うて、まあいうならば寝てしまう、そして起きてから御神前に出て御祈念を頂くとです。
 本当に相済まんという心が起こって、今日は一日油断のならない、すきを作らない一日でありたいと願いますから、かえって朝の御祈念に出て来なかった方が、何か充実した一日が送れる様な気がしますというお話をしとりました。
 皆さんそういう思うをなさらないでしょうか、皆さんは毎朝、朝の御祈念に参っとられますから、そんなこともありますまいけども、朝の御祈念に例えば出ますともう一日、もうそれだけでやれやれという気が起きると言うのです。
 まあ若いから仕方がないのでございますけれどもいかにです、我が身は神徳の中に生かされてあるかということを、自覚していないかということが分かります。
 我が身は神徳の中に生かされてある。本当に生かされて生きておるんだと、本当に分かったらね、生かされて生きておるという事実をね、本当に、把握させて頂いたらね、生かされておるんですから、その生かされておる今日一日をです。もう本当に充実した一日を送らなければ相済まないという心が必ず起こって来るです。
 ああ今日はもうつまらん一日だった、本当に目の荒い一日であった。というならばです、それはまあだまあだ生かされて生きておる事実をです、把握してない証拠です。だから金光様の信心は、まずここが本当に分かるということです。そすと一日がね、真心にならなければおられないです。
 生かされて生きておるという事実が、本当に分からせてもらう、把握させて頂いたら、生かされておるのですから、生かして頂いておるのですから、それが無為に一日を過ごす様なことでは、相済まんという心はおのずとわいて来るはずです。
 そこでです例えば、確かに親先生が言われれば言われる通りに、生かされて生きておるんだということを、まあ理屈の上ででも分からせて頂くのですから、なら今日一日を無為の一日であってはならない。充実した一日であらねばならない。いや何事にも真心にならなければならない。そういう生き方からです、それこそ生き生きとした有り難さが、尽きぬ有り難さが生まれて来ると思います。
 昨日、或る方の書かれたものを読んでおりましたら、お道でいう和賀心とは、やわらぎ賀ぶと書いてあるけれども、和らぎよろこぶとそういうことは、表面のことであって、本当は自他共に生かす心だと、説明しとられました。
 まあ若い先生ですから、どうしてもそう理屈っぽくなるわけですね。和賀心とは自他共に生かす心だと、確かにそうです。けれどもやはり和らぐ心があり賀ぶ心があってはじめて、自他共に生かすことが出来るのです。
 そこで和らぐ心も体験せず賀ぶ心も体験せずして、自他共に生かすことは出来ません。只自分が努力をして、人も生かそう自分も生かそうとしても生きるもんじゃありません。これはもうその雰囲気の持つ、和らいだ心の中から、どこから湧いて来るかわからん信心の、喜びというものがです、言わんでも語らんでも、もうその雰囲気の中に自分自身も助かっとる事実、状態ですけれども、自他共に助かつておるその事実がです、いや自分が助かっておる事実がです。そのまま雰囲気の中に人をも生かす働きになって来るのが和賀心なんです。
 そこで初めて和賀心とは、自他共に生かす心だと、ためにはまず、自分の心の中から湧いて来る喜び、どこから湧いて来るかもわからん喜び、その田主丸の山口さんが、私のお退けの時間にいつも参って来るにもかかわらず、先生はもちっと早く参って来んのとも、それを迷惑相にもなさらなければ、いつもニコニコとしてお取次して下さるその様子を見てです。自分が大いに最近反省させられとりますという。
 勤めとるんですから、もう何時になったっら帰ってよいというのですから、そのもう店を閉めよる頃にやって来るお客さんには、どうしても突慳貧(つっけんどん)になる、今頃どん来て、という様な心になりましたけれども、これでは相済まん。親先生がお退けの時間ぎりぎりにお参りしても、ニコニコとお取次下さる。そこんところを見習わしてもらおう、こういう生き方で行こうというふうに、最近は思わせて頂くと言うておりますけれども、そういう行き方こそがです、私は充実した行き方だと思うです。
 まず我が身は神徳の中に生かされてある。だから生かされてある喜びもさる事ながら、生かされておる事実を本当に、私の心で分からせて頂いたら、生かされておるのがです。今日一日をそのお礼のしるしに、充実した一日であらなければ、相済まんことになって来るのです。
 そういう生き方、そういう在り方で、日々を過ごさして頂くところからです。私は許されるのが、和賀心だと思うです。
 充実感に満ちた一日、もちろん充実感という事はです、ただ一日を一生懸命働きぬいたというだけではなくて、何事にも真心にならなければ、相済まないことになって来るのです。ですから朝の清々しさからです、昼のいそがしさ夜の有り難さという様な、充実したおかげを受ける事が出来るのです。
 そこがまだ分ってない、生かされて生きておる事実、話を聞けばわかる。知ってもおるけれどもです、自分のいうならば、心と体で、それを実感さしてもらえれるような、おかげを頂いたときにです。光昭の話じゃないですけれども、朝の御祈念に御用をさして頂いたときには、もうそれだけで一日が済んだという気がして、後がどうもダラダラになりがちだと言うのです。
 朝の御祈念にご無礼をして、もう遅うなりついでだからと思うてゆっくりと寝る。そして御神前に出たときに初めてです、はあ今日はご無礼じゃったと、今日はダラダラで行きよったら、もういよいよダラダラになってしまう。自分を少しは本気で、考えて見るわけでしょうね。だから今日はお粗末ご無礼のない一日でなからにゃならんというて、返って一日を充実した一日を送ることが出来るといった様な話を聞きながら、私自身がやっぱりそういう時代があったなと思うのです。
 この頃まあ、わかればわかるほど、生かされて生きておる事実がわかればわかるほど、お生かしのおかげを頂いておる。その、生かされて生きておる今日一日をです、許されて生きておるこの一日をです。如何に充実したしかも、神様に喜んで頂く一日であらねばならないかということを、切に思います。
 そういう生き方からです、どこから湧いて来るかわからない喜びが頂けて来る。もちろん心も和らいで来る。そこには自他共に生かす働きがおのずと出来て来る。
 もう時間、時間ギリギリに見えたお客さんに対しても、やはり実意丁寧を尽くされる。そこに初めて自他共に、どうも済みません。帰りなさらんならん時分に来て済みませんと、相手にもよろこびを与えられる。自分もそれを面倒がらずに出来れることが有り難い、と心得てさして頂いとるのですから、本当に今日もおかげを頂いてよかったという、充実が生まれてくることも事実です。
 皆さん本当に自分自身が、生かされて生きておる事実をです。本当にわからせて頂くためにもです、今日一日本気で神様に喜んで頂く充実した一日でありたいという願いのもとに、今日一日を過ごされたら充実した、いわゆる和らぎ賀ぶ心もうまれてきましょう、なるほど生かされて生きておる事実をいよいよ、もう理屈ではなしに心と五体と共にそれを感じとらせて頂くことが出来る。
 そういう信心を土台として根本としてお道の信心は、進めて行かなければならないと思います。どうぞ。                                 昨日ですかここで末永先生と、信心話をさして頂く中に、昨日の朝の御理解を聞いて頂いた中に、あの三人の方のお取次の状態、おかげを受けておられるお話を聞いて頂きました。あの様なことが、どの様なことかと、私は合楽で一番有り難いことは、それこそ噛んで含める様に御理解を頂けるから、どういう問題を持って来てもそれが解決することいやこれは、私もおかげを受けられるぞといった様な心が必ず起きて来るということ。どういう難儀な問題を持ってきても、御理解をそれこそ噛んで含める様に頂く、どういう難儀な問題を持って来とっても、ああ親先生の言われる通りにすりゃ私も助かることが出来るぞ、おかげが頂けることが出来るぞといった様な、心の状態で帰ることが出来るぞといった様な話をしましたですね。
 だからああいうことは、いうならばここでは、極楽行きの切符を買わせた様なものだというて昨日話したことでした。だから極楽行きをしたというのじゃないのです。極楽行きの切符を買うただけです。そこで今日の朝聞いて頂いたことを実行することによって、極楽行きの切符を買うただけでなく、極楽行きのいうなら車に乗ることになるのです。
 切符を買うただけではいけんのです。私そこんところを、昨日末永先生と私は確かに人に極楽行きの切符を買わすることだけは、まあいうならば名人ですけれども極楽行きまで誘導するというか、極楽行きの車に乗せるところまでのおかげを頂くためには、もちっと私が、自身が力を受けなければいけんという話をしたんです。
 ですから確かに皆さんそうでしょうが、ああ今日のこの行き方で行けばおかげが頂けるぞという心が起きるでしょう。だからそれは、私が極楽行きの切符を買わせたのも同様です。だからそれを実行させるということが、極楽行きの車にのることですからね。ここは私にもそこんところに力がないからその力を受けなければならんという様に、皆さんもです。本気で折角、切符を買わせて頂いたんですから、今日私が言うた、ここんところ今日一日本気で守らせてもらう、実行さしてもらうという事を行じ終わったときはじめて、今日一日がなるほど極楽行きの車に乗っとったなあということになるのですよね。どうぞ。